昨年の冬に、広島を子連れで旅してきました。
高速船(SEA SPICA:シースピカ)と観光列車(etSETOra)で瀬戸内周遊2島めぐり(下蒲刈島「松濤園」・うさぎの大久野島)が楽しめるツアーに申し込みました( ´∀`)
我々家族は、呉港から高速船(SEA SPICA:シースピカ)に乗船しました☆
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高速船(SEA SPICA:シースピカ)をデザインしたのは、JR西日本「WEST EXPRESS銀河」のデザインを担当した川西康之氏です☆
高速船(SEA SPICA:シースピカ)の
艦船クルーズでは、間近に自衛艦を見ることができて、カッコよかったです(*^^*)
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掃海艇(そうかいてい)もここでみることが出来ます。掃海艇は、機雷の掃海を任務とする軍艦です。
この旅で、私は海に潜む爆発兵器機雷とゆーものの存在を初めて知りました!(◎_◎;)恐ろしいぃ
そして、機雷を命懸けで撤去してくださってる自衛隊の方たちに感謝です💦
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機雷除去の訓練(出典:海上自衛隊掃海隊群HP)
第2次世界大戦中、日本近海には約1万700個の機雷が敷設され、機雷に接触して沈没するなどの船舶の被害が増大し、日本の海上交通は麻痺状態となりました。
戦後、機雷の除去がわが国復興上の急務とされ、昭和20年から航路啓開業務として機雷の除去作業が実施されました。航路啓開業務は、昭和60年で終了しましたが、その後も港湾の浚渫作業時などに機雷が発見されており、その際には機雷の除去・処分を実施しています。
機雷は安価でありながら破壊力が大きく、武器としての費用対効果が高いことから、現在でも多くの国々が保有しています。
(防衛省HPより)
高速船(SEA SPICA:シースピカ)で、
艦船クルーズを終え、下蒲刈島へ上陸☆
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和洋折衷な建物がステキですね✨
下蒲刈島は古くから瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えてきた町であり、江戸時代、朝鮮通信使の来日の際に、下蒲刈島が広島藩の接待所・玄関口として大歓迎したとゆー記録がたくさん残されているらしい。
再び高速船(SEA SPICA:シースピカ)に乗り込み、次の島に向かう途中
見えました❗️広島の軍艦島❗️\( ˆoˆ )/
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軍艦島から煙突から煙がモクモクでてますね〜
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私「軍艦島って廃墟のイメージだったけど、煙突から煙が出てるってことは今も稼働してるんだね〜」
夫「広島の軍艦島は生きた軍艦島だからね。来週、廃墟の軍艦島にも行こうと思ってる。」
私「え(°_°)軍艦島って2個あんの?!」
※軍艦島の愛称で知られる長崎の世界遺産・端島は島全体が廃虚と化しておりますが、精錬所が現在も稼働中の広島の契島は「生きた軍艦島」とも呼ばれている。
広島の軍艦島を通過し、
次に上陸した島は、約600羽のうさぎがお出迎えしてくれる大久野島(*´ω`*)
うさぎに餌があげれます。
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うさぎ島とも呼ばれる大久野島ですが、、、
かつて大久野島では、大量の毒ガス兵器が製造されていた過去があり、
当時、毒ガス製造の実態を隠すため、陸軍が発行した地図においても大久野島一帯は空白地域として扱われていたことから“地図から消された島”と呼ばれるようになったとか。
現在では、休暇村として整備され国民の保養地となり、島内には砲台跡、発電場、毒ガス貯蔵庫等と、当時の面影は僅かしか残っていない。
この島で毒ガスを製造した過程で多くの犠牲者を出すに至った事は誠に痛ましく、その悲惨さを訴え、そして恒久平和を願う目的で1988年にこの資料館が建設されています。(大久野島 毒ガス資料館HPより)
毒ガス資料館にも入りましたが、
中は写真撮影禁止されていました〜☆
当時の、女性作業員の作業着が展示されておりましたが、子どもサイズにしか見えず💧
夫と「小っさ❗️(゚o゚;;」と驚きました。
防空壕がありました。
娘は防空壕を見ても、全く怖がることなく「ここからゲゲゲの森に繋がってるんだよ〜」とオカルト発言をしておりました(⌒-⌒;
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大久野島を探検した後は、
高速船(SEA SPICA:シースピカ)に乗り、
三原港で下船。
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三原名物「たこ会席」を堪能!(*´ω`*)美味し
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長くなりそうなので、今日はこの辺で!
読んでいただきありがとうございました☆
カープデザインの路面電車をみると、広島に来た感あっていいですね(^^)♡